東北震災・原発人災から6年が経過しました・・・
まだ、一昨年召されたポチィ~(▼=^・^=▼)さんも元氣でした。
そろそろ、小菅の往診の準備してと想っていた処に1回目の地震でした。
ポチ~さんも勘太郎くんも家でノンビリして地震を氣にしていませんでしたが、
先ず二階に上がってベランダから外の様子を見ましたが・・・
近隣の家人は誰ひとりとして出てきません。
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私が帰宅するといつもお出迎えしてくれていた白(=^・^=)♂の【Pai】さんが
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通りの向かえにある畑の端っこを恐がりながら矢印の方へ逃げていくのを目撃しました・・・
其れから2度めの揺れの時には
【終わりか・・・】
ポチィ~さんと勘太郎くんのキャリーバッグを用意しようか、テレビの速報に耳を傾けていました。

東京でも高速道路は全面封鎖

往診先からも連絡が無いので大丈夫と少し早めに出発しました。
高島平駅~三田線も閉鎖
ガラガラの高島平通りから中山道に入り裏道から環七・・・
大渋滞・・・
メールも電話も不通・・・
当時の携帯電話のテレビだかが情報源
歩道は人がまだまだバラバラに帰路について公衆電話は全部埋まっている状態。

晴天の明るい空からすっかり真っ暗に時刻的には夕方ですが国道沿いの自転車屋だんには客が並んでいました・・・
2時間遅れでしょうか、なんとか往診先に伺えました。
往診先の方から聞いて、携帯電話もパンクして不通と言う事を知りました。
往診を受けて頂けお茶を御馳走になり帰路
国道から大渋滞、歩道は数珠つなぎの帰宅の人々・・・
いったい、何時間したら帰れるのか・・・
何時間かかったかもう忘れましたが、当時板橋の体育館で柔道を指南していたので体育館に寄って
帰宅できないスタッフが居たら送るろうと寄ると当時の責任者が素晴らしい人で地震後直ぐに帰らせたり
家族に迎えに着てもらい大丈夫と。
責任者は避難場所になっているから泊まりますと。
環八か高島平通りは空いていたので家路を急ぎました。
和光市から板橋区成増の旧川越街道に入ると歩道はどこから続いているのか数珠繋ぎにふとが溢れていました・・
旧道も下りが大渋滞、なんとか抜けて帰宅前にガソリンを何も氣にせずに満タンにしたのが幸運でした、其れが
あったからある程度、ガソリンや物資が普及するまで僅かの限定のガソリンを補充しながら往診を全てこなす事も
できました。

今でも当日のドライブレコーダー映像は保尊してあります。
未だに復旧されない福島・・・
何も出来ない自分にも憤りをいまだ感じます。
亡くなられた方々に・・・
    黙祷

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